【東電前アクション!声明】

「汚染水問題」について②
「汚染水をタンカーに積んで柏崎に移送しろ」論を批判する


                                    2013年9月5日

 東京電力福島第一原発事故における「汚染水」問題について、日々新たな大量の漏水や超高線量の箇所が発見されるなどの報が伝えられている。この状況において、「なんとかならないか」と願い、市民運動が「政府は早く対策を取れ」と主張すること自体は心情としてわからなくはない。

 しかし、安易に「収束」の対策や方法を市民運動が政府に提示することは、有効でない方法に時間や資金、人員という貴重なコストを無駄に垂れ流すことにしかならないということは、私たち東電前アクション!の8月31日付声明で述べたとおりだ。

 なかでも、小出裕章京都大学原子炉実験所助教が3.11原発事故直後から提唱している「汚染水を大型タンカーに積んで、処理施設のある柏崎刈羽原発に移送するべき」という主張が、この破局的な「汚染水問題」が露呈している状況下において反原発運動-市民運動内で一定の力を持って浸透している。

 私たちは、この「汚染水を大型タンカーに積んで、処理施設のある柏崎刈羽原発に移送するべき」という主張が、「収束」作業員と原発立地地域を切り捨てた典型的な「収束」要求の主張として、批判されるべきものだと考える。

◆「タンカーで移送」論は「収束」作業員-労働者の切り捨てだ

 報道や東電の発表においても、福島第一原発の敷地内で超高濃度と言える高線量の漏水が日々伝えられている。東電は31日には、4カ所のタンクや配管で最大線量毎時1800ミリシーベルトの放射線量が計測されたことを発表した。これは4時間で死亡するという高い数値である。

 このような放射性物質そのものと言えるような「汚染水」を移送し、タンカーで管理するという作業を誰にやれと言えるのだろうか。自らが作業に行かない・しないことを前提に「このような対策がある」と提示すること自体が、「収束」作業員-労働者の存在を切り捨てても自分の生命だけは守りたい、という思考の表れなのではないだろうか。

 小出氏は「シニア原発決死隊」に志願しているというが、このプロジェクトが頓挫している以上、他人に被ばくを押し付けるということに変わりはない。ましてや、そのような覚悟さえ持たない者が小出氏の尻馬に乗って労働者に犠牲を押し付ける主張は、社会運動のあるべき倫理・道徳にまったく反するものだと指摘する。

◆「タンカーで移送」論は原発立地地域-柏崎・刈羽住民の切り捨てだ

 小出氏は「柏崎刈羽原発に汚染水の処理施設があるから持って行けばいい」と主張する。しかし、通常の原発排水ではない福島第一原発の泥や鉄片、異物が大量に混じっているであろう「汚染水」を想定した「処理施設」など存在しない。福島第一原発の「浄化システム」同様すぐにダウンする可能性の方が高いだろう。

 そうなった場合、タンカーを次はどこに持っていけばいいと言うのだろうか。福島に戻すのだろうか。金属を腐食させやすい放射性物質を積んだタンカーを新潟にずっと留め置けと言うのだろうか。そのタンカーから「汚染水」が漏れたら誰が責任を取るのだろうか。

 また、柏崎刈羽原発の「処理施設」が一定有効に稼働すると仮定したとしても、「ろ過システム」には当然フィルターというものがあり、フィルターに超高濃度の放射性物質が付着する。その超高濃度の放射性廃棄物となったフィルターをどこで処分すればいいのか。新潟に置いておくのか、福島に返すのか。下北に持って行けとでも言うのだろうか。ここにも新たな難問が発生するのだ。

 そもそも大前提として、福島第一原発で発生したような超高濃度「汚染水」を柏崎・刈羽に持って行くならば、当該地域住民の同意と合意が必要な重大な事柄である。地域住民の意向を聞くこともなく、もしくは存在を無視して「柏崎・刈羽に移送しろ」、などと主張すること自体、市民運動-社会運動の深刻な堕落の表現だと言わざるを得ない。

◆まず反原発運動-社会運動こそ「収束不能」の現実を受け入れるしかない

 私たちは、「柏崎刈羽の再稼働反対」を言う口で「汚染水を柏崎・刈羽に移送しろ」などと言う矛盾は耐え難いものだと考える。そして、反原発運動-社会運動内部にさえ、原発立地地域に被ばくも汚染も押し付けて自らを守ろうとする思考が蔓延している現実そのものが耐え難いものだ。そのような姿勢で、どうして柏崎・刈羽住民そして全国の原発立地地域の人々と連帯できるというのだろうか。

 小出氏はかねてから持論として「原発は差別の問題だから反対する」と言っているが、「タンカーで移送」論は、それを行う労働者の問題、原発立地地域の問題をスポイルしている点で、その持論にまったく反している。私たちは「タンカーで移送」論に反対する。それはまさしく「原発は差別の問題」だと考えるからであり、少数者や地方に犠牲を押し付ける社会のあり方を終わらせることなくして、原発をなくすことはできないと考えるからだ。

 「汚染水をタンカーに積んで柏崎に移送しろ」などという愚劣な主張をするならば、もっとよい提案がある。

 「政府は”収束”作業員を公募しろ。私たちは喜んで応募する。そして東京湾に処理施設を建設して汚染水を処理しろ」と。

 もちろん、これは私たちの要求ではない。遠い他人や地域に被ばくや汚染を押し付けるようなことを主張するならば、福島・新潟の原発の電気を使ってきた東京電力管内の都市部で被ばくも汚染も引き受けるというのが筋ではないか、と言いたいのだ。そして、柏崎・刈羽という地域は福島第一原発事故となんの関係もないし、東電の電気を使ってもいない。

 「タンカーで移送」論は、福島第一原発事故が破局的な状況にあるなかで「なんとかしなければならない」という焦りが言わせるものだということはわからなくはない。しかし、政府には「"収束宣言”を撤回しろ」と迫りながら、反原発運動-社会運動の側が実は「収束不能」という現実を受け入れられない表現が、「政府は収束させろ」あるいは「汚染水を海に流すな」などという主張に表れている。

 「タンカーで移送」論のように安易な「収束」要求は、反原発運動-社会運動を「日本のために」などと称して被ばくする労働者を切り捨て、原発立地地域を切り捨てる「救国運動」へと堕落させる結果にしかならない。もちろん、「タンカーで移送」論は現実には技術的にも社会的にも実現は元々相当に困難なものだ。しかし、私たちはこの主張に現れている労働者切り捨て・地方切り捨ての思考が反原発運動-社会運動内部にさえ蔓延することを危惧するものだ。

 私たちは、再度主張する。福島第一原発はもはや「収束しない」という現実を受け入れ、この現実を見据えた上での要求を政府-東電に突きつけていくべき段階であると。その要求は、

・あらためて政府による世界に対する謝罪

・政府による「収束」作業員の身分保証

・汚染予測地図の作成

・新たな避難計画の作成。避難者の生活補償

・「収束」作業と原発事故被害者賠償のための東電の財産の最終的処分

・「原発事故緊急対応省」(ウクライナ型「緊急事態省」)の設置による被害者と避難者の社会的ケアの保証

さしあたって、このようなものであるべきだと考える。

 私たち東電前アクション!は、事故発生直後の2011年3月18日から東電本店前での行動を繰り返してきた。しかし、私たちは一度としてグループとして「東電は早く事故を収束させろ」とか「このような方法で作業しろ」とか「"収束"現場での手抜き工事を許さない」などと主張したことはない。それは何より、現場の労働者たちの犠牲を前提にするものになることだと考えるからである。

 私たちは、今後も「収束」要求運動をするつもりはない。私たちは「大の虫を生かすために、小の虫を殺す」という考え方の一切を否定する。そして、社会運動は自らの主張に対して一切の結果責任を負わなければならないのだ。

:::::::::::::::::::::

◆関連